今朝、急に目覚まし時計のありやなしについて考えてみたくなった。ありていに言って目覚まし時計という言葉が、あるいは存在が、僕は好きではない。まったく好きではない。好きだったことは一度もない。僕の目覚まし時計の好きじゃなさには隙がないと言っても良いだろう。
だがどうしてそんなに目覚まし時計が好きじゃないのかと問われれば、これはもうちょっとした禅問答になること請け合いである。
類は友を呼ぶという言葉があるが、この言葉を友であれば類であると解釈すれば、あの目覚まし時計に友がいるとは思えず、よって類があるはずもない。となると必然的に目覚まし時計をこの世に現存する唯一の物体、唯一の概念として語ってこそ、この嫌悪の正体が知れるというものだ。それでこそ人は巧者となれる。
そもそも朝だから起きなければならないという発想そのものが、もう旧態依然とした姿勢であることは、既に証明されている事実でもある。歴史が証明している。日本が誇る国際的文化であるアニメの大半が深夜に放映されていることからも瞭然であるように、今や人類は夜行性なのだ。これは遠からず、生物学者も認めることになるであろう、揺るぎのない事実である。勉強も作業も、深夜に行われる。夜型になることで、人類は更なる進化を遂げようとしているのだ。ともすると、今後、太陽と月のイメージが逆になるかもしれない。だからこそ人は朝にこそ眠るべきであり、たがらこそその朝に人を起こそうとする目覚まし時計は、人の進化を阻害する悪鬼羅刹の類であると言わざるを得ない。
気持ちはわかる。
目覚まし時計というひとつの機能に頼りたくなる気持ちはわかる。
しかし今こそ人は勇気を持ち、その機能に別れを告げるべきなのではないだろうか。ー決別のときが来たのだ。
もういいじゃないか、目なんて覚まさなくても。一生ぼんやり生きたところで、精々一笑に付されるくらいだ。寧ろ、笑ものにならない人生なんてつまらないだろ?
みんなの笑顔を見ながら生きていきたいじゃないか。
だから、僕達は目覚まし時計にこう告げよう。
嫌悪ではなく、感謝の念を込めて。
「ありがとう。そしておやすみ」
2015年10月19日 11時45分に投稿