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出汁を取った昆布を洗うことは出来るのだろうか。研究ver1(0)
暇である。雨の日のバイトほど暇なことはない。楽なのは良いことで気持ち的にも有難いのだが、割とホワイトな(少なくとも以前やっていた引越しのアルバイトよりはホワイトである…)店に勤めている身としてはお客は多いに越したことはない。とはいえ、何かしらをしていないといられない性格のわたしには、暇という状況がバイトよりも苦痛である。ふと横を見た。そこには出汁を取った後の、捨てる直前のふやけた昆布が鍋を泳いでいた。「昆布は、洗ったらどうなるのだろうか。」そんな疑問がわたしの脳裏をよぎった。暇とは怖いものである。わたしは3つのアイテムを用意した。タワシ、金物用の銀のスポンジ(以後銀スポと表記する)、普通のスポンジである。この3つを使い、食器用洗剤で昆布を洗ってみることにした。①タワシ予想通り、これは失敗であった。タワシの棘が昆布をいとも簡単に引き裂くだけでなく、千切れた昆布が隙間に入り込んでしまう。工夫して洗ってみようとしたが、団体客が来たので断念。②銀スポタワシでの失敗を糧に、優しく洗うことを心がけた。なんと昆布は千切れることなく磨かれた。しかしタワシ同様少しでも力を加えると破れてしまう上、優しく扱いすぎて昆布を洗っている感覚がしない。ただ表面を撫でているような、そんな虚無感だけが残った。一応洗うことはできた。③普通のスポンジ洗えた。普通に洗うことができた。かなり力を入れて洗っても破けることはなく、しっかりと泡立ってくれた。また、昆布は片面がヌメリがあり片面は紙のような触り心地なのだが、ヌメリが若干取れているくらいにはしっかりと洗うことが出来た。この3つの検証により、昆布はスポンジで洗うことが出来るという結果が導き出せた。恐るべしスポンジ。家庭のシンクに君臨し続けただけのことはある。捨てる昆布がある方には是非一度試してみてほしい。わたしは何をやっているのだろうか。
いつもと同じ、今日の帰り道。真っ暗だなぁと思いながら疲れきった足を動かしていた。否、真っ暗ではなかった。現代に完全な暗闇というものはすでにない。概念的には夜であるが、未だ街には人工による太陽がひしめいている。しかし真っ暗という単語から連想するのは黒色だろう。色が見えるためには、「光、物体、目」という3つの条件が必要となる。例えばリンゴが赤く見えるまでの手順は1. リンゴが赤く見えるためには光が必要である。その光には、すべての色が含まれている。2. 光がリンゴに当たったとき、リンゴは多くの光を吸収する。その中で、赤の光だけを反射している。3. そして、その赤の光が私達の目に入る。4. 目に入った光が脳に伝わり、脳が色を知覚し「このリンゴは赤い」と認識できる。つまり、「リンゴの表面に赤色を反射する性質がある」だけでリンゴが赤色なわけではない。今歩いている暗闇は、一体何色なのだろうか。
『衣・食・住』このような言葉が今日のオンライン講義の中に出てきた。思えば当たり前のように我々が持っているこの3つの単語。しかし何故この3つなのだろうか。「服を着て、食べて、住む」。これだけではあまりにも怠惰ではなかろうか。「働」や「行」を入れても良いだろう。これではまるでニートの怠惰の代名詞のようなものだ。なぜ3つなのだろうか。3という数字について3という数字は縁起が良いものと古くから言われているのはご存知だろうか。「早起きは三文の徳」「仏の顔も三度まで」など、3のつく慣用句やことわざは山ほどある。また宗教でも、「魂、肉体、精神」という三位一体が神を意味する。「父、母、子」の3人で家族が成立し、「1、1、1」で初めて三角形という図形が出来る。このような3をモチーフにしたものはいくらでもある。ゲームでもこの3という数字はよく出てくる。ゼルダの伝説でも、トライフォースという3つの力を宿した勇者が主人公であり、様々なゲームでは大抵2回は生き返るボスも3度目には倒れる。日本人にとっても、また世界にとってもこの3という数字は縁起が良いものとされている。例えば4になってしまった場合、日本語では四=死を意味したりもする。さて、本題に戻すと「衣、食、住」という言葉がこの3つで成り立っているのは、古くから人類が奥底で感じている“3“という存在が大きいのではないだろうか。社会で生きるのに必要最低限の3つ、これが『衣食住』の正体なのではないだろうか。正体とはなんなのだろうか。こんなことを考えているうちに、講義は次の内容へと進んでいた。今日も平和である。
意識外からの攻撃。attack from unconsciousness.(1)
意識外からの攻撃には、人は反応できない。今日のバイト先での出来事。「よく切れるから気をつけて洗ってね」と手渡された包丁。それは骨なども切れる本当に鋭い包丁。わたしはソレを本当に気をつけて洗い、本当に気をつけて拭き、壁にかけた。わたしの手からは血が滴り落ちていた。あり得ない。気をつけてと言われ、だからこそ本当に気をつけたのに。わたしがビルゲイツだったら新しいソフトを開発できたくらい手元に集中していたのに。ソレと手を見比べて、わたしは結論に至った。わたしの綺麗な手に風穴をあけようとした正体は、ソレではなかった。ソレの隣にあった、あまり切れない包丁だったのだ。わたしはその事実に気がついた瞬間、こんな悟りを開いた。『真の敵は、意識外にいるものである。』人はいくら気をつけていたとしても、意識外のものには反応できない。これは様々な漫画や創作物でも取り上げられている。もし全ての物事に対し、意識を集中させることが出来たなら、それはもはや人ではないだろう。あの織田信長でさえ重臣であった明智光秀に敗れたのだ。こんな庶民のわたしが様々な方向に目を向け気をつけることなどできるはずがない。ならばわたしは、わたしに出来ることをすれば良い。流水で洗い、指で挟むように止血をしながら、わたしはそんなことを思った。
人は太古よりイヌと共存してきた。それは狩猟をする際に都合が良く、またイヌにとっても都合が良かったのだろう。縄文早期の遺跡からは、丁寧に埋葬されたイヌの骨が見つかっている。 では今はどうか。このご時世イヌを飼うというと、愛玩という言葉が出てくる。共存という形は変わらないが、それは生きるためのパートナーから一方的に養う対象へと変化してしまった。そんな人々はイヌに対し、ミルクだのモモだのクッキーだのと食べ物の名称を名前として付けている始末である。なら別に魚に食べ物の名前をつけても良いのではないだろうか わたしは先日ベタという観賞魚を飼い始めた。iPhone6のパッケージで見たことがある人も多いだろう。飼いやすい代表の魚であり、見た目の鮮やかさから人気も高い。原産地のタイでは国魚として認定もされている、そんな観賞魚だ。わたしは彼(♂)に、うさぎと名付けた。