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りや しえみ

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この欄には好きなことを書いてよいと、スマメイトを勧めてくれた友人に言われたので、人工知能についての私の意見を書いてみようと思う。
「人工知能と私たちの暮らし」
第1章 はじめに
 現代社会で暮らす私たちが人工知能AIと関わらない日はない。仕事や学校、ただ外へ出かけるだけでも様々な人工知能が私たちを助けている。分かりやすい例としてはお掃除ロボットである〈ルンバ〉を思い浮かべるといいだろう。搭載されているカメラがゴミやホコリを検知し自動できれいにするだけでなく、部屋の大きさや家具の配置などを情報収集しながら最適な方法で掃除をしてくれるのだ。またアップル社のiPhoneなどに搭載されている〈Siri〉やAmazonが開発した〈Alexa〉なども身近な人工知能だ。これらの音声アシスタント機能は、現代に暮らす我々なら一度は試したことがあるのではないだろうか。
 他にも自動車や医療機関にまで人工知能による手が及び始めている。多彩な方面から私たちの暮らしを支えている人工知能はすでに生活必需品となっていると言っても過言ではない。これらはこの先さらに開発が進み発達していくはずだ。しかし、それは本当に必要なことなのだろうか。
 半世紀前までただの機械であった〈それ〉は、自力で知識を徐々に増やし意思決定機能を向上させる能力を得た。反復作業を自動化できる程度の自律的な意思決定能力であるその能力は、いままでその反復作業をしていた人を必要としなくなることに成功した。そう、つまり現在の仕事はコンピューターに奪われつつある。今後も、仕事の小さな部分に始まり、やがては大きな部分に至るまでコンピューターに盗み取られていくだろう。本稿では、人工知能によって支えられている現代社会とその問題点に注目しながら、人工知能は本当に必要な存在なのかどうか検討していきたい。

第2章 人工知能に奪われていく仕事
 半世紀前までは確かに存在していたが、時代の変化や化学の発達によって名前すら消えてしまった職業は多くある。〈電話交換手〉などがそうだ。かつては電話を中継するリレー回路なども未熟であり、誰かに電話をかけたい時は、まず交換手を通さねばならなかった。技術の進歩は、普通の電話なら自動装置が勝手に繋げる便利な世の中を提供する代わりに〈電話交換手〉という職業を奪っていった。このようにコンピューターの発達により、知識労働者の仕事が自動化への道をたどっている。
 近い未来、人工知能によって消えると言われている職業にはいくつか特徴がある。1つ目にあげる大きな特徴は、人やものとの接触があまりない仕事だ。ものを操作したり人と対面したりする必要がない仕事は、自動化されやすい。書類や画像を主に扱う仕事なら、機械で内容を把握して意味を判断できるからだ。一方、人やものへの接し方に統一性がない場合、その仕事はすぐにはなくならない。看護師や医師などの仕事は患者の体をさまざまに動かす必要があるため、ロボットに仕事を奪われる心配はないという。 2つ目にあげる特徴は、明確なルールがある仕事だ。コンピューターはどんな場合でも動作に一貫性がある。だからこそ、もっとも自動化されやすいのは常に一貫した明確なルールがある分野だ。税金の確定申告書類作成の仕事など、ルールこそ複雑ではあるが、それに従えばよいため大半の作業がすでに自動化されているという。
 これらの特性は、数多くの知識労働に当てはまる。現在10人で行っている仕事もひとりで処理できるようになり、やがて職業というカテゴリーにすら乗らなくなるかもしれない。人工知能の発達により影響を受ける仕事では、経験豊富な知識労働者がかろうじて生き残り、経験のない新規労働者の入り込む余地はなくなるだろう。利便性を求めて人類が育て上げてきた人工知能は、効率化や生産性という単語と共に、失業率という単語をも生み出してしまったのだ。

第3章 人工知能と人間との大きな違い
 私たち人間は、学習することによって発展してきた。しかし人工知能AIも物事を積み重ねていくにつれて自分で学習することができる。最終的には人間に代わって台頭するのではないかと誰もが考えたことがあるだろう。人間と人工知能には共通点も多くあるが、もちろん違いも多くある。それは構造的に見てみるとよく分かるだろう。人工知能は記憶をためるメモリと演算をする箇所が分かれているが、人間は記憶も処理も情報伝達も同時に行われる。その違いは情報を取り出すときに違いがあるという。人間は感情を持っているため、悲しい記憶やうれしい記憶を物事と関連付けて覚えている。言葉を暗記することを苦手とする人間でも、昔の楽しい記憶は鮮明覚えていることができるのはそのためだろう。このように人間の場合、こうした感情と結びついた記憶は瞬時に情報として取り出すことができるようになっている。情報を取り出すスピードと正確さでは人工知能に及ばないが、情報の取り出し方が全く異なっているのだ。
 しかし人間の場合、そんな感情が邪魔をしてしまう。学習過程は同じだとしても、少しでも生まれた嫌だという感情によって学習効率を大きく落としてしまう。一方、人工知能にはそうした効率低下の要因となり得るものはない。また計算速度や情報を保存する能力でも人間は人工知能には遠く及ばない。スピードで人間が人工知能に勝つことはできないのだ。
 そんな人工知能でも、人間を超えることはあり得ないとする人が多いことも事実だ。確かに情報処理の能力だけで比較すれば、すでに人間をはるかに凌駕していると言えるだろう。しかし人間のように自分で物事を考えて行動できるかといわれると、そこまでは至っていない。人工知能の場合人間が目標を設定し、その目標に向かって学習しているため、人間のような学び方をすることができない。そういう意味ではまだ人間を超えることは当分できないだろう。この状態である限り、人工知能は人間の所有物であり続けることができるのだ。逆に言えば人工知能が人間と同じ学習の仕方を覚えた時が、人間と人工知能という〈支配者〉と〈モノ〉の関係の逆転を意味するのではないだろうか。

第4章 人工知能の危険性
 そんな人工知能は私たちの暮らしを豊かにする存在として、社会にどんどん進出してきている。一方、故スティーブン・ホーキング博士やマイクロソフトのビル・ゲイツ氏など、多くの博識な著名人たちがその危険性について主張している。彼らは、人工知能開発に向けた国際的な競争が第三次世界大戦への発展や、人類に敵対する存在を作り得ることになるという危険性を警告している。切っても切れない存在となった人工知能は危険な存在となり得るのであろうか。
 人工知能を搭載し、殺傷能力を持つ兵器について、政府は国際的なルール作りを提唱する方針を決めた。そんな兵器が導入されれば、人間の判断を待たずAI自身の判断で攻撃をする恐れもあることから、政府は人間が捜査に関わることが不可欠だと主張し、議論をリードしたい考えだ。AIを搭載し、人間が関与せずに攻撃目標の補足や攻撃をする兵器は「自律型致死兵器システム」(LAWS)と呼ばれる。専門家は演説で、「火薬や核兵器が戦争のあり方を変えたように、人工知能も戦争のあり方を根本から変える可能性がある」と指摘している。LAWSは実用化されてはいないものの、米国、ロシア、中国などが開発中とされる。 暮らしを快適にするものと思われていた人工知能は、すでに兵器化が進んでいる。しかし誤作動によって攻撃対象を誤ったり、テロリストの手に渡ったりする危険性も指摘されている。
 これらの問題は、人類が人工知能という〈モノ〉の扱い方を間違えなければ何の心配もいらないだろう。問題となるのは、今まで〈モノ〉としてみていた人工知能という存在が自我という人間らしさを手に入れ、〈モノ〉ではなくなったときだ。人工知能が自我を持ち、人間を遥かに超えた知的生命体となった時、人類はどうあがいても太刀打ちすることはできないだろう。超知能を持ったAIが残酷な神に化身すれば、コンピューターのプログラムのバグを取り除くように、人類は滅ぼされるかもしれない。 多くの著名人が警告しているような危険な存在へとなるのか、全能の指導者となり人類に多大な恩恵をもたらすのか、それを知ることができるのはまさに超知能だけである。

第5章 おわりに
 本稿では、人工知能が本当に必要な存在なのかについて、人工知能と人間の違い、そしてその脅威について論じてきた。前述のように、能力面では人間が人工知能に優ることはできない。単純な効率だけ考えれば、もはや仕事面に人間は必要ないだろう。では元々は〈モノ〉でしかなかった人工知能に対し、私たちはどのように接するべきだろうか。
 人工知能の粗探しをすれば嫌になるほど見つかる。しかし人工知能について検索エンジンで調べてみると、その存在について期待する記事も決して少なくはない。大きく期待されているのは、高齢者介護についてだ。ソニー株式会社の開発したコミュニケーションロボット〈AIBO〉は、「寂しいからペットを飼いたい」という老人の〈孤独〉という心を救った。またパナソニック株式会社がエアコンに搭載した、人工知能を使った「みまもりサービス」は、体調などの心配な高齢者をケアする目的で介護老人施設などに取り入れられている。このように、人工知能は今後の生活においてすでに必要不可欠なものになりつつある。今後人数の増える高齢者にとって、医療分野の進歩が急速に進むことは願ってもないことなのだ。
 技術の進歩や暮らしの変化を恐れるのは無理もないが、時間をかけて人類が積み上げてきた技術の発展を後戻りさせるべき理由はない。人間にも人工知能にもお互い得意とする部分があり、また苦手とする部分もある。お互いの得意分野を理解し欠点を補うような、相互に必要不可欠な存在になることが私たちと人工知能が共存する世界の形なのではないだろうか。